先日、知り合いの方がFacebookで「明日、はじめての田植え体験します」とあふれんばかりのワクワクが詰まった投稿をされていました。ワクワク感が伝わってきて、こっちまで嬉しかったのですが、フッと疑問に思うことが…。
田植えって小学校で体験実習するものじゃないの?
私にとって田植えは季節を感じる日々の日常でした。実家の裏に出れば未だに田んぼが広がっています。今では野菜を作っておられるので稲が植わってる事はありませんが、子供の頃は植ってました。田植えの時期には祖父母も両親も手伝いで大忙しでした。農家の田植えがひと段落した頃、学校の隅にある小さな田んぼで小学校の田植えをしてました。農家の方は機械を使いますが、小学校は子供たちがたくさんいるので手植えでした。
後に知ることになるのですが、近所の農家の方が土を耕して水を張り入れて毎年ボランティアで田んぼを作ってくれてました。田植え前の田んぼでで隣接する幼稚園の子たちがまず泥遊びを体験します。娘は日本に幼稚園に留学していた時に体験させてもらって、楽しみまくってました。みんな捨てる予定の服きて泥の中にダイブ。そりゃ〜楽しいよね。見てる私も楽しくなった泥遊び体験。サイズアウトしたヨレヨレの服を着て、思う存分泥にまみれて遊ぶ子供たちの姿は、着飾った姿の何倍も魅力的でした。
幼稚園のドロ遊びが終わったら、いよいよ小学生の田植え。詳しいことは忘れましたが、実際に田植えした記憶があります。それから、稲の成長観察が授業に組み込まれてました。田植えだけでなく、サツマイモもどこかで植えた記憶があって秋には学校全体で収穫祭として焼き芋パーティーも年間行事としてありました。落ち葉を集めてきて自分の掘ってきたサツマイモにアルミホイルを巻いてペンで印をつけてみんなの芋を焼いて食べてました。
当たり前だと思っていた農業体験は貴重な時間
私にとっては当たり前だった農業体験はロンドンで子育てをしていると子供たちに体験させてあげられない貴重な体験だったんだと、Facebookの投稿を読ませていただいた時に初めて気づけました。米を育てる授業は別ですが、私にとって芋掘りは家の手伝いで毎年恒例の強制参加イベント。楽しいと思ったこともなかったし、同級生から見られてからかわれるのが嫌だなと思っていたため、どちらかと言えば嫌な思い出。近くには新興住宅地もあり、農地を持ってない同級生もたくさんいました。農地を持ってないから手伝わなくていいという環境が羨ましかった私。今思えば馬鹿げたことですが、当時は真剣でした。
私の両親は本業で農家をしてるわけではなく、今では自分たちが食べたい野菜を育ててる家庭菜園の延長みたいな感じで農業をしています。そんな環境ですが、街で生まれ育った私の子供たちにとっては田舎満喫体験ができる貴重な場になっています。田んぼと畑でそれぞれ野菜を作っているし帰国したタイミングでしか味わえない経験ですが、自然大好きな娘にとっては最高のリトリートでもあります。汚れていい服をきて田んぼで好き放題遊んで、傍に流れる水路で天然のメダカを捕まえてみたり。いろんな種類の野菜の収穫も両親のおかげで体験させてもらえました。
子供の言葉でハッとする本物の食べ物を食べるという事
そんな中で娘が何気なく発した言葉がありました。実家の田んぼには大きなイチジクの気が6本あり、小さいころから実家で採れるイチジクを食べてきました。今ではスーパーでしか買えないイチジクですが、時々懐かしくて食べたくなるので私は買うのですが娘は一切食べようとしません。何で食べないのかと思って聞いてみたら、
「イチジクは好きやけど、田んぼで採ってすぐに食べたモノだけ好き。家に持って帰ってきたイチジクもお店で買ったのも美味しくないから食べない」
この話を聞いた時にすごい発言するなと思ったんですが、食べ物の本質を子供ならではに直球で表現した言葉だなと今は振り返っています。本来の食べ物はパックになって入ってるものではなく、生き物。熟れるまで土と太陽のエネルギーをもらいながら育って、収穫後すぐに食べるのが一番美味しいに決まってる。
私の今の生活スタイルでは、子供たちに農業体験もさせてあげられず出来る限りの食の安全を求めて買い物に慎重になる以外できません。だからこそ、自分がいかに恵まれていたか。そして、両親が子供たちに自然と触れ合える体験をさせてくれる環境にあることに感謝しかありません。
農業、漁業、畜産などもっとも大切にすべき産業が第一次産業なんだと田舎を離れて何十年もたって思い知りました。嫌な思い出だった田舎での手伝い経験は今では大切な私の財産。昔の私に伝えられることがあるなら、「今はわからないかもしれないけど、あなたの悩みは贅沢。いつでも経験できると思わず、今出来ることを全力で体験しな。」ということでしょうか。伝わらないでしょうけどね。田舎に帰りたくなってきた〜そんな週末。